ココロの繋がり
エリンの空に今宵も二つの月があがっていく。イウェカとラデカ、対を成す彼らが闇と共に姿をあらわすにつれ、僕の意識も次第にはっきりとしてくる。
(……)
僕は直接何かを見ることはできない。僕にできることは――ただ、音を奏でる事、そして自らの奏でた音を聞くことのみ――
(あぁ…)
今日も僕は演奏「されている」。お世辞にも上手いとは言えない、拙い音が僕の体から流れ落ちる。それでも、何かの曲を弾こうとして、僕の持ち主の少年は僕の弦に指を這わせつづけている。
「どうして上手くいかないんだ…」
(運指の基本がなってないんだよ)
そうつぶやく。けれど、僕の声が少年に届く事は決してない。なぜなら僕は――マナが満ちる夜の間にのみ意識をもつことができる、ただの楽器なのだから。
僕はいわゆる大量生産の、ごくありふれたリュートだ。一個一個丹念に作られる、いわゆる「名器」と呼ばれるようなモノとは違う。そんな僕が夜間だけとはいえ、なぜ意志を持つようになったのかはわからない。けれど、僕は店先に並べられている時にはすでに意思を持っていた。
(…)
店の棚に、一人の青年の手によって並べられ、磨かれながら僕はどのような人に買われるのだろうかと夢想した。日中、主に客が集中する時間には僕の意識はない。おそらく意識がないうちに誰かの手の中にあるのだろう、そしてその人は僕を使って色々な曲を演奏するのだろう――疑問を差し挟む余地もなく、そう思っていた。
だけれども――
その日、突如荒々しい音と共に、閉店間際の雑貨屋の扉が開かれた。
「ああ、今日はそろそろ…」
「楽器をくれ!」
その少年は、息を切らせながら、とても荒々しい様子で青年に貨幣を渡した。青年がその様子に困惑していると、少年は待つのに焦れたのか、僕たちが並べられている棚にずかずかと近づいてきて、僕を手にとった。
「これ、いいか?」
「え、ああ、うん」
お金を受け取っている以上、こんな少年でも客だ。青年は多少眉をひそめながらも、僕を売る事を承諾した。そして、少年は僕を手にすると足早に店を出て行った。あまりにも――想像していたのと違う、人の手への渡り方。はじめて外に出て、満ちるマナと輝く月に感動する間もなく、僕はただ困惑するだけだった。それが――僕と少年の出会いだった。
「くそっ…」
少年がいらだちの声をあげる。彼は誰かに音楽を習ったというわけでもなさそうだった。単なるみようみまね――言ってしまえば、一種の憧れだけで僕の弦を爪弾いている。そして、楽器というものは、憧れだけで演奏できるほど甘いものではない。いかな大量生産品とはいえ、自分にできる最良の音を出したい――それは楽器として生まれ、音楽を奏でる存在である僕にとってはごく当たり前の欲求だった。
(ほら、それじゃダメだよ)
教えてあげたくても、僕の声は決して彼には届かない。人と人ならざる存在。その両者の意思の疎通はあまりにも難しく――いや、無謀としか言い様がない。まだ人と魔族……ポウォールのほうが意思の疎通ができるというものだ。彼に僕の声が分からないように、僕にも彼の考えが分かる事はないだろう。
(もっと上手い人に買ってもらえたらよかったのにな)
闇の中、ぽつりと僕はそう呟いた。それと同時に彼の指が僕の体から不協和音をはじき出し、月明かりの静寂を切り裂いた――
それから数週間。少年の腕は一向に上達しなかった。そもそも音楽の知識があるわけでもなく、しかも完全に独学でやろうとしているのだから当たり前と言えば当たり前だ。あの雑貨屋の青年も、もう少し売る相手を選んでくれればよかったのに、と僕は心の中で呟いた。最も――声に出そうが出すまいが、それを聞くものも、聞けるものもどこにもいないのだけれど。
僕は僕自身の体から生み出される音を聞きながら、ふと空を「視た」。僕に視覚などないはずだけれど、それでも僕には中空に浮かぶ美しい月が見えた。マナに満ちた美しい光を放つとても美しい月だけは見えた。それに比べて――僕はどうだろうか。
(…………)
雑音としか言い様のない音を撒き散らす僕の体。美しく世界を照らす月と比べるのは、あまりにも不釣合いではあるのかもしれないけれど、世界で認識できる存在がそれしかない以上は、それと比べざるを得ない。認識できない以上、僕にとっては木も土も、空も海も、存在しないに等しいからだ。
(なんで、僕は――)
人間にこの不快さが想像できるだろうか。美しい音を出し、人を喜ばせる事が存在意義である僕が、目覚めるたびにその存在意義を果たすどころか、逆に不快にさせてしまうような音を奏でているという現実を。
第二夜:エチュード Top Before Next
今日は、いつもとは少し違っていた。目が覚めたとき、僕の体からは不快な音は漏れていなかった。さりとて、少年の手から離れているというわけでもなさそうだった。いつものように僕の体をもつ少年のマナを感じる事ができる。
(どうしたんだろう?)
目覚めが快適なのはいい事だけれども、いつもと違うとやはりそれは不安でもある。そんな疑問が浮かび上がりかけたときに、突如声が響いた。
「うるさい…って言ってるだろ!」
怒り、焦り、不安、そういったもろもろの感情が込められた怒声が夜のしじまに響き渡る。僕は音に関しては敏感だ。その声に――こめられた感情を読み取る事もおぼろげながらできる。
「だから、それじゃ上手くなれない、と言っているんだよ」
ふと、聞いた事のない若い男性の声が届く。その青年の気配は――とても穏やかで、純粋で濃密なマナを感じさせた。通常、あらゆる生物にマナは保有されているがその存在の意志力が強いほどにマナの保有量も多くなる。
つまり、マナそのものを感知する僕にとっては、人という存在はマナの塊なのだ。誰もがマナを持っている。ただ――多くの人がその扱い方を知らないだけ、だ。
「だまれ…!」
激昂したように少年が返す。おそらく、青年が少年に演奏について何か指摘をしたのだろう。そして――それが図星であったがゆえに、少年は逆上している。よくよく気配を探ると、青年の強いマナの傍らに、もう一つ、弱めではあるがしっかりとしたマナがあった。だが――
(やぁ、兄弟)
(――え)
突如、話しかけてきた声に驚きの声をあげる。今のは――明らかに、僕へ向けての声だった。そう、青年の側にあるマナの気配は――よく知っている、僕自身のマナに似ている気配だったのだ。
(君のご主人下手だなぁ、まだ買ってもらったばっかりかい?)
(……)
それは――の手にしたリュートの声だった。他にも意思をもった楽器が居たという事実に喜ぶ間もなく、『彼』の言葉に僕は恥ずかしさのあまりに声を出せないでいた。けっして買ってもらったばかりなどではない。だけれども――いまだに雑音と言って過言ではない程度の音しか出せていない。
「ふむ…」
青年は少年を見ながら少し考えてから、自分の手にもった楽器に指をはわせた。それは僕と同じタイプのリュートであり、構造的には僕とほとんど変わらない音が出るように作られているはずだった。
だけれども、
音が、響く。
清廉な音が、夜の静寂を壊すことなく、優しく広がっていく。
「…………」
(…………)
僕も、少年も、黙り込んでしまった。軽くエチュード(練習曲)を弾いてみせただけなのに、その青年の腕は痛いほどによくわかった。少年はあまりにも次元が違いすぎてわかっていない可能性もあるが、そうとうな技量の持ち主だという事だけはわかっただろう。楽器自体は僕とそう大差がないはずなのに、ここまで差が出るものなのか。
「くそっ…」
自分をはるかに超えた存在と相対した時、人はだいたい2つの道のどちらかを選ぶ。それは単純に言ってしまえば「諦める」か「頑張る」かの違いだ。そして、少年はそのうちの前者を選ぼうしている――僕には、そう思えた。
だが、次の少年の言葉は僕にとっては意外なものだった。
「俺に…リュートの弾き方を教えてくれ」
渋々といった感じで、だがなぜか焦りを感じさせるその声に青年は穏やかに微笑んだ。
「もちろん。せめて基礎くらいは出来ていないと、弾いてても面白くないだろう?」
その言葉に、少年の気配が少しだけ、和らぐ。
「じゃ、じゃあ…」
少年が、僕を青年の前に差し出す。
「このリュート、いい音が出ないんだよ、あんたのそのリュート、いいやつなんだろ、それ――」
パンッ
「――あ」
(ありゃりゃ…ご主人、手をあげるとは珍しい)
青年が、先ほどまでよりもやや厳しい気配を纏いながら、少年の手に僕を返し、しっかりと握らせる。
「楽器のせいにしてはいけない」
「ぐ…」
まさか殴られるとは思っていなかったのだろう。怒りと、混乱の気配をはらみながら少年が青年をにらみつけたのがわかった。
「今の君では、どのような名器を扱ったところでまともな音は出せないよ」
穏やかな、しかし残酷な断定。
「楽器の『心』を知りなさい。楽器はただの道具ではない。君のパートナーなのだから」
(そうそう、ご主人いい事言うねぇ)
青年の言葉に、相手のリュートが同意の思念を放つ。確かにこの二人――片方は人じゃないから二「人」とは言いにくいかもしれないけれど――はとても理想的に見えた。
「パートナー…?」
少年がいぶかしげにうめく。青年は1つうなずくと、今度は優しく少年の頭をなでてから、少年に背を向けて歩きだした。
「今言ったことについて、じっくり考えてみるといい。明日、同じ時間にここに来るよ」
振り返らずに手を振りながら、青年が遠ざかっていく。背負われたリュートも、僕に対して「またね」という思念を送りながら、去っていった。後に残されたのは、月明かりと、不満そうに顔をしかめる少年、そして僕のみ。
「くそ…」
いらだたしげに、少年が僕の弦を力任せに一度弾いた――
第三夜:焦燥 Top Before Next
(へぇ、それじゃあこの子はずっと夜練習してるんだ)
(うん、全然上手くならないけどね…)
(はは、まあご主人が教えればどんな人でもある程度はできるようになるさ)
(だといいんだけれど……)
次の日の夜。青年は約束通りにいつもの場所にやってきて、少年もやや不満そうな気配を見せつつも、練習が開始された。僕は、はじめて会話ができる仲間と出会えた事が嬉しく、そしてまた同時に境遇の違いが悲しくなっていた。
世の中はあまりにも不公平だ。
少年はお世辞にも才能があるとは思えない。悲しいかな、人は全て平等とはいっても、音楽や芸術に関しては、どうしても生来の才能というものが付きまとう。それは少年自身も、青年と自分との比較で自覚しているだろう。
天才と凡才。その彼我の差はどこから来るものか。凡才はどこまで努力しても、秀才にしかなりえない。その両者の間には、絶対的な壁が存在している。
(ねぇ)
(?)
(君、この子に才能がない、って思ってるだろ)
その瞬間、僕はどきりとした。まるで心を読まれたかのような錯覚を覚えたから。いや、そもそも本来の言葉で会話するわけではない僕達の中であるならば、本当に心を読まれていたのかもしれないけれど。
(ご主人も最初は下手くそだった、って言ったら、信じられるかい?)
(え?)
正直、信じられなかった。穏やかで、美しい旋律を奏でる青年の下手くそな演奏など、想像もつかない。僕が黙っていると、苦笑するような思念が伝わってきた。
(ふふ、そうでしょ?だからその子だってどうなるかわからないさ)
(……)
そこでふと気がつく。どうしてこの少年は、楽器を演奏しようとしているのだろう。誰に言われているわけでもない、強制されているわけでもないのに、どうしてこんなにも焦り、必死なのだろう。
それを――僕は、何も知らない。
(君は――なんで、弾くんだい?)
「君は、何でそんなに弾きたいんだい?」
僕と、青年が偶然にも同時に少年に同じ問いを投げかける。その問いに、少年はしばらく目をそらしてから、ポツリとつぶやいた。
「弾けなきゃ、いけないんだ。俺は弾けなくちゃ、いけないんだ」
焦り、苛立ち、無力感。それらがないまぜになった黒い感情が少年のマナを通して伝わってくる。これは――いったい、なに?この少年は、何をそんなに――
「……ふむ」
青年がしばし黙した上で、少年の頭をなでる。
「そんなに焦っていては弾けるものも、弾けるようにならないよ」
「……時間が、ないんだ」
少年が、うつむきながら呟く。
「ならなおさらだ。さあ、心を落ち着けていこう」
無言のまま頷くと、二人はまた練習を再開した。この時――僕は、はじめてこの少年の事を、この少年の想いを、知りたいと、かすかに思った。その夜は、少しだけ少年の演奏が上手くなったように、思えた。
第四夜-1:ココロ Top Before Next
それから3日。青年の教えのもと、少年の演奏はようやくまともに聞けるレベルにまではなってきていた。やはり、一人で練習するのと、教師が――それも優秀な――つくのとでは、ぜんぜん違う。
その間、青年はあの夜の問いを繰り返すことはなく、少年も何かをしゃべるわけではなかった。だが、日に日に少年の心に焦りが強くなっていくのを、僕は感じていた。青年もそれを感じてはいるだろうけれど、顔に出す事はなかった。
(ねぇ)
青年のリュートが語りかけてくる。
(この子、なんでこんなに焦っているの?)
(……さぁ)
正直に答える。僕にも、わからないのだ。僕はイウェカが昇り、世界にマナが満ちる夜間にのみ起きている。つまり――夕方から、夜。少年が寝るまでのわずかばかりの時間しか、彼と時間を共有していないのだ。
(知りたいとは思わないの?)
(それは……)
最初は、そんな事考えもしなかった。この少年に使われる事がただ嫌で、ただ哀しくて、辛いだけだった。だが――この前の夜、少年が見せた焦り。あれはなんだったんだろう。
(君は……)
ふと、少年の家の事を思い出す。毎晩少年と共に帰るその場所。そこには――少年以外の人間――おそらく母親だろう――のマナを感じる事ができた。だが……父親は?少年の家で、それらしきマナを感じた事はこれまでの間、なかった。
ならば、母親のため?だが、彼が家に帰ってから母親と会話している姿を僕はほとんど見た事がなかった。ならば?
(君は……誰のために、何のために、僕を弾くの?)
誰かを楽しませるため?違う……彼の演奏は、そんな目的ではない。何か、指向性があるものだ。あらゆる人に向けて奏でられる演奏ではない。もっと、強い、特定の誰かに向けたものだ。
ならば、誰かに愛を伝えるため?それも違う。少年の求めるものは甘く愛を語らうためのバラッドではない。もっともっと、力強く、それでいて繊細なものだ。
彼は――何を弾きたい?彼は、何を求めている?
――刹那。
「……!」
少年が、驚く。それと同時に僕も、そして青年も驚いていた。これまでよりもずっと綺麗で、力強い音が、僕の体からあふれたのだ。少年が思わず演奏を止めて、僕を見つめる。
「これは…………」
「少しだけ、繋がれたようだね」
「繋ぐ?」
少年の怪訝そうな声。僕には、少しだけ青年の言った意味がわかった。
(ああ……そうだったのか)
分かるはずがないと思っていた。無謀だと思っていた。だが、そうではないのだ。
「君のそのリュートが、少しだけ心を開いてくれたのさ」
「…心…」
戸惑う少年に、青年が穏やかに微笑む。
「このエリンの何もかもが、心を持っている。草木も、人によって作られたリュートであっても。彼らの心を知り、自分の心を伝えた時にこそ、本当の繋がりが生まれる」
さっきの一瞬。僕の中に少年の想いが流れ込んできていた。そう、今まで少年が僕を分かろうとしていなかっただけじゃない。僕も――少年を分かろうとしていなかった。少年を拒否していた。楽器とその奏者。どちらかが自分の心を押し付けても上手くいかないのだ。二つの心を。二つの魂をより合わせて一つの曲へと昇華させる。
それは――実のところ、そんなに難しくはない。ただ、気がつけばいいのだ。お互いに、お互いの心があることに。
「…そう、か。心、か……」
少年が短く呟く。呟く少年からは、今までとは違う感情が僕の中に流れ込んできていた。けれどそれは決して不快なものではなくて、戸惑いながらも温かさすら感じる事のできるものだった。そして男に軽く礼を言うと、僕を連れて立ち去っていった。
――後に残された青年と、そのリュートは――
(あの子、もう来ないかもしれないね)
「ああ、こないだろうね。でも、それでいいんだよ。もうレクチャーは終わったんだから。」
(まだまだ未熟だけどね)
「うん。でも、大丈夫さ、きっと成長できる。大事なものに気がつけたようだからね。彼も、そしてあのリュートもね」
(そうだね。昔のご主人みたいだったね、あの子)
「ふふ、そうだね」
(で、ご主人、そろそろこの村を?)
「そうだな、もう行こうか。今ならムーンゲートも開いているしね」
(うん、また旅へ――)
「……少年、いつかまた、会える時を楽しみにしているよ」
第四夜-2:繋がり Top Before Next
青年とわかれた少年は、僕を連れて道を歩いていた。だけれども――それは、いつもの道ではない。少年の家に帰る道ではないのだ。緩やかな坂を上り、一軒の家の前まで少年がたどり着く。その家の裏手には、墓地があるようだった。
「……ディリスさん」
「いらっしゃい、珍しいわね」
中から女性の声が聞こえた。そして家の中に少年が招き入れられる。物質的に物を見るわけではない僕の感覚機能では正確な事はいえないが――そこは、病院のように思えた。少年は――こんなところに何の用があるのだろう?
「今は?」
「寝てるわよ」
短い問いに短い答え。お互いに、了解があってこその受け答えだ。少年はディリスという女性の言葉に軽く頷き、その家の奥のほうへと進んでいった。そこで僕も気がつく。この家には少年、女性、そして――もうひとつ、酷く微弱な人間のマナがあることを。
「……」
少年が、椅子に腰掛ける。その椅子の前には、ベッドがあり、微弱なマナはそのベッドから放たれていた。どこか少年のものに似たその感覚――それは、おそらく。
「……俺の、親父だ」
(!?)
少年が僕に語りかけていた。驚きながらも、僕はその言葉を受け止めていた。
「これでもちょっと有名な音楽家でな。けど――エリン中をいつも巡業で飛び回っていて、ほとんど家にはいなかった。俺はそんな親父が嫌いでね」
(…)
「けど……1ヶ月くらい前に、突然ぶっ倒れて、な。もう助からないんだとよ。笑わせるよな……ついこの間まで、世界中駆けずり回っていた人間がさ、余命2ヶ月、って宣告されるなんてさ」
一ヶ月前……余命2ヶ月――それは――
驚きながらも、時間を逆算していく。そう――少年が僕のことを買ったのは……彼の父親が倒れた直後ではないか。そして……少年の父親の余命は……あと幾ばくもないはずだった……
「ここに運びこまれた時、ずっとうわごとで俺と母さんの名前を繰り返していたらしい。今まで家にはほとんど帰ってこなかったのにな。その後、時折意識が戻った時も、ずっとずっと、俺たちの事を心配していた。そして――何度も、自分の愛用のリュートを手にしようとして、震える手で、それができないでいた」
何の病気かは分からないが、脳がやられているのだろう。そのために――手が上手く動かせない。それは音楽家にとって、どれだけの苦痛であることか。
「何度も、何度も。なんとか手にしたリュートでの演奏はそりゃ酷いもんだったさ。なんせまともに指が動かせないんだからな……親父が泣いているのを見たのは、あれがはじめてだったな」
(……)
「気がついたら、お前を買いに走っていた」
ぽつりぽつりと、少年の独白は続いた。あるいはそれは、自分自身へ語っていたのかもしれない。
「俺は弾けなくてはいけなかった。親父の魂を受け継ぐために。親父に、「あんたの代わりに俺が弾くから安心しろ」と言えるように」
そう――この少年が求めていたのは。全てを受け入れ、そして力強く前へ進む想い。優しさだけではない、強さだけでもない。死に行く者へ手向けるレクイエムでありながら、前に進み続けるマーチのように。それは、とても難しいものだった。
「……」
いつの間にか、少年の父親が起き上がっていた。少年もそれに気がついたのか、あわてて顔をあげる。
「……起こしちまったか」
「…いいや、最初から起きていた。今日はお前がきそうな予感がしてな」
「…………ハッ」
少年が嘲りになりきれていない苦笑を漏らす。気恥ずかしさもあるのだろう、それは一種の照れ隠しでもあった。
「……」
「……」
少年と、父親が、両方共にしばらく黙り込む。ややあってから、父親が呟く。
「……聞かせて、くれるかな」
その言葉に、少年が頷く
「…ああ」
――静かな夜に。これから死に行く者へ。これから生きる者達へ。安らぎと、力強さを。夜の静寂を壊すのではなく、それすらも曲の一部として。誰に押し付けるわけでもない、誰に押し付けられたわけでもない。ただただ自然に、想うがままに。少年は指を動かした。途中、少年の頬を涙が伝わったのを、僕は感じていた。
少年の心と、僕の心と。二つの心が一つになり、楽器と奏者が一体となり、本当の意味での音楽が生まれ出る。それは――なんという幸せなことか。
「……」
演奏終了後。しばらくの静寂が部屋を満たす。だが、それすらも曲の続きなのだ。さらにしばらくしてから、父親が震える手で、拍手をした。それはとても弱弱しい音ではあったけれども、とても温かみのあるものだった。
「見事だ」
「親父……」
「もちろん、まだまだ未熟だけどな。……大事なものは分かったようだな」
「ああ」
「いい音楽家になれそうだ……昔、俺が教えたあいつみたいに……」
「…ああ、なるよ…」
「……さて、俺は寝させてもらうとしよう。ふふ、これでも起きているのは少々辛くなってきていてな」
ぎこちない動きで、少年の父親が再びベッドに入る。少年はしばらくそれを見つめ……そして、一言、ぽつりと呟いた。
「……ありがとうな」
それは、僕へだったのか。それとも、自分の父親へだったのか。あるいは――両方であったのか。だが、これからも、僕はこの少年と共にあろうと思う。もっと、お互いにわかりあえるように。お互いの心を通わせ、曲を奏でるために。いつか――あの青年の域にまで、いや、それすらも越えたところへ少年が、到達できるように――
(そういえばご主人)
エリン各地を繋ぐムーンゲート。それはマナが満ちる夜間にのみ使える移動手段。そのゲートの手前で、青年のリュートがささやいた。
「ん?」
(この村に、ご主人の先生がいたのでは?その人にお礼を言うために立ち寄った、って言ってたような……)
「ああ、それならもういいんだよ」
(?)
「お礼なら、じゅうぶん返したさ。あの人の子供に、ね」
そう呟いて、彼は軽く微笑み、ムーンゲートの中へと消えていった――