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このカテゴリの考察記事の一覧
  • 2007年03月25日 02:05 楽園パレードとハーメルン
  • 2007年02月25日 10:40 「3-1+1-2」という式
  • 2007年02月20日 00:53 葡萄酒、そして傾いた天秤
  • ABYSS〜奈落幻想物語組曲〜

    対象楽曲:「Ark」「Baroque」「Yield」「Stardust」「Sacrifice」

    ElysionのCDのブックレットを見れば一目瞭然なのですが、「Elysion〜楽園幻想物語組曲〜」には「ABYSS〜奈落幻想物語組曲〜」という裏タイトルとでも言うべき副題がつけられています。
    これは、上記5曲の頭文字を繋げた単語であり、エルの楽園などでもその事が示唆されています。
    (「挟み込まれた四つの楽園に惑わされずに垂直に堕ちればそこは……ABYSS」という部分)

    この5曲は、全て舞台設定、登場人物も異なります。Arkは、脳外科手術などが行われている模様であり、きわめて高度な科学力の存在を感じさせます。そしてそれとは逆にSacrificeではあたかも中世の魔女狩りの時代かのような、趣が見受けられます。

    それぞれの登場人物の少女達の間にはなんら繋がりがありません。しかし、彼女らが誰かを殺害しているという点だけは全てにおいて共通しています。そして、その殺害の前後に彼女らは仮面の男を見ます。

    この仮面の男とは、「エルの楽園」で死去した"アビス"です。そして彼は、少女達を"楽園パレード"へ連れ去ります。彼女らが仮面の男によって選定された理由はなんでしょうか。
    「笛吹き男とパレード」には「心に深い傷を負った者にとって」「心に深い闇を飼った者にとって」という下りがあります。

    5曲のほとんどは、狂愛の果てにその愛の対象を殺してしまうという狂気が見受けられます(Sacrificeのみ例外)。基本的には、そのような狂気と絶望を持った者達の前に、仮面の男が現れて、連れ去っていくのでしょう。

    ですが。仮面の男が本当に探しているのは彼女達ではない、と考えられます。
    この5曲は、すべて最初に「彼女こそ、私のエリスなのだろうか…」という語りがあります。これを見るに、仮面の男が真実探しているのは、すでに失われた彼自身の娘なのです。
    失われた娘の魂、あるいはその転生した姿を求め続け、時間も空間も超えて様々なところに出没する幽鬼と化してしまっている悲しい存在こそが、仮面の男アビスの本質なのだと見受けられます。

    また、Elysionは第4の地平線ではありますが、この5曲に関しては、地平線からは独立した楽曲であると私は考えています。地平線から外れた別次元に存在した5人の少女を、仮面の男が「楽園」という地平線の中に引きずり込んだ、と解釈しています。

    それゆえに、私はRomanなどの他アルバムの考察を行う場合についても、エルの楽園、天秤などは他楽曲ともリンクさせて考えていますが、この5曲はリンク対象外の独立楽曲として、今後も考察を行っていきます。

    楽園パレードとハーメルン

    対象楽曲:エルの絵本【笛吹き男とパレード】

    この楽曲は、「ハーメルンの笛吹き男」をモチーフにしていると考えられます。
    ハーメルンの笛吹き男とは、ドイツのハーメルンという街において、笛を吹く男がその音で130人の子供達を街から連れ去ってしまい、二度と帰ってこなかったという伝承です。

    笛の音によって心に闇を持つ哀れな少女達をパレードに引き込んでいくアビスの姿は、まさにハーメルンの笛吹き男の姿と重なります。(無差別な分ハーメルンのほうが性質悪いのかもしれませんが)

    なお、近年のハーメルンの笛吹き男においては、最後に子供が助かったりする追記がされているものもあるようですが、もともとの民話としては、子供達が二度と帰ってこなかった記述が正しいものです。また、よく「最初に鼠を笛で操って駆除した」というような話がありますが、こちらも一番最初のころの笛吹き男の話にはなかった内容のようです。

    ハーメルンにて連れ去れた子供達がどこに連れていかれたのかは分かりません。(洞窟の中に連れていかれたとされますが、その洞窟の奥には何があるのでしょうか?)

    しかし、この楽園パレードは行き着く先、というか彼らがどのような状態であるのかのヒントがあります。それは仮面の男の台詞など、歌詞の内容から推測することができます。

    「黄昏の葬列」「仮初めの終焉」…仮面の男は楽園パレードという前にこのような形容をしています。つまり、楽園パレードは完全な終わりではありません。あくまでも仮初めの終わりなのです。しかし、同時に葬列でもあります。

    そして、Romanの楽曲などでも朝=生 夜=死と象徴されているように、「黄昏」は生にも死にも属さない狭間の時間です。このパレードは、仮面の男に代表されるように死したものの、現世への未練を断ち切ることができない哀れな魂達の永劫に終わることのない葬列なのです。

    彼らはあの世にたどり着くこともありません。生き返ることもできません。ただただ、生と死の狭間を永劫にさまよい続けるのです。日本でいうところの「百鬼夜行」に近いような存在なのだと考えられます。

    彼らは沈む夕陽に背を向けています。つまり、沈み行く生=死から逃げているのです。そして、「やがてそのパレードは 夕陽を裏切って地平線を灼き尽くす」とされています。

    これはどういうことでしょうか。夕陽を裏切るというのは、死という定めを裏切る(逃げる)という事なのでしょう。そして、このアルバムにおける地平線とは「楽園」つまりエリュシオン、またの名をアビスの事を示しています。

    やがて彼らの強い想い、妄執は楽園を崩壊させ、地獄に変えてしまう。そういう事なのではないでしょうか。以前の記事にて、「珊瑚の城」が崩壊した「神々が愛した楽園」であると推測しましたが、ひょっとしたら仮面の男達がパレードを行っていたのはかつての神々が愛した楽園だったのかもしれませんね。

    死ぬことも、生きることもできずに永劫にさまよいつづけるというのは、悲しいものですね。

    最後に。この曲の最後をよく聞くと「ジャリ・・・ジャリ・・・」と人が歩くような音が聞こえます。その足取りは重く、とてもではありませんがパレードを行っている足音には聞こえません。この足音こそが、何よりも明確に楽園パレードの真実の姿、百鬼夜行に近しい哀れな魂達の葬列を示しているのではないでしょうか。

    「3-1+1-2」という式

    対象楽曲:「Yield」

    この歌では「3-1+1-2」という数式が出てきます。この式を解釈するにあたり、一般的にはおそらく「仮面の男」が「+1」である、とすると思います。確かに歌を聞くだけだとそう解釈するのが一番自然でしょう。しかし、実はその解釈では矛盾点が生じてくるのです。

    ではまず、仮面の男を+1であると仮定した場合の流れを見てみましょう。



    ■「仮面の男」が「+1」である場合の数式の流れ
    この場合、登場人物と式は以下のとおりとなります。
    A:主人公の娘 B:カップルの男性 C:娘の恋敵の女性 D:仮面の男

     3   - 1 + 1  -2
    A B C - B + D - A D = C

    最初は「二人の女 一人の男 一番不幸なのは誰?」とあるとおりABCがいます。ここが「3」です。
    そして、次の「-1」。これが男女のどちらかを示すのは明示されていませんが、カップルの男に横恋慕していたAは思い余り、Cを殺害して、Bを手に入れようとする。しかしながら、「エルの絵本【笛吹き男とパレード】」で「収穫を誤った娘」とあるように、誤ってBを殺害してしまう。これが自然ではないでしょうか。

    ※他のABYSSサイドの曲は基本的に、女の子達が愛する人を殺してしまう歌なので、Yieldもその基本の流れに準拠すると考えます。ただしSacrificeに関しては違うので、それを考慮して、もし娘が最初に殺したのが女性だったとしても、この式は後の矛盾点にひっかかります。

    そして愛する人を手にかけたAの前にDが現れ(+1)、"楽園パレード"へ連れ去ります。ここが「-2」です。そして最後に「荒野に一人取り残されるのは誰?」の解答となる"一番不幸な"C。

    この流れは、非常に自然なように見えます。歌だけを聞く限りではこう解釈するのが一番自然なことでしょう。しかし、この解釈はCDのジャケットに対して大きな矛盾を孕むのです。それが…

    ABYSSサイドのジャケットでは、Yieldの娘の後ろで"二人"首を失って死んでいるという事実

    です。上記の流れだと、死者は男だけであり、ジャケットの絵柄と矛盾するのです。では、どう解釈すればよいのでしょうか。私は以下のように考えます。



    ■妊娠、そして出産による+1
    まず、この解釈をするにあたり、前提として「仮面の男」は数字には入れません。なぜなら、彼は「最後に現れたのは仮面の男」なのです。数式の"途中"に+1として「仮面の男」が出てくるのは矛盾します。

    そうすると、登場人物は以下の3人に減少します。
    A:主人公の娘 B:横恋慕している男性 C:娘の恋敵の女性

    では、「+1」に相当するものはなんでしょうか。この娘は「一夜限りの情事でも構わない それをも女は永遠にできるから」こう言っています。情事を"夢"と読んでいる事から、"一回だけでもいいから抱いてほしい"と夢想しているように読めます。

    しかし、その他の歌詞の部分で「夏が過ぎれば思いが実る」と言っている部分があります。重要なのは「思いが実る」と言い切っている事です。男性をもぎ取れるだけの確信が彼女にはあったのでしょう。ではそれは何か。それは「男性と娘の子供」ではないでしょうか。
    冬に「一夜限りの情事」を行っていたのだとしたら?妊娠から出産まではおよそ10ヶ月。12月ごろに関係を持っていたとすると、夏が過ぎて秋である10月ごろに子供が生まれる計算です。
    つまり、彼女は「子供」が実るのを待っていたわけです。

    しかし彼女は想いが募りすぎてしまい、恋敵の女性を殺害しようとし、誤って男を殺してしまいます。これが「-1」です。その後、彼女には子供が生まれます。それが「+1」です。そして次の「-2」。ここで消え去ったのは誰か。これは娘と恋敵の女性、両方ではないでしょうか。

    恋敵が娘を憎み殺したのか、それとも娘がまず改めて恋敵を殺したのかはわかりません。しかし、結果として二人とも死亡した。そして、「仮面の男」が最後に現れ、死去した娘の魂を"楽園パレード"へと連れ去っていった。

    最後に残されたのは娘の子供。親は共に無く、身勝手な三角関係の最大の被害者であり、"一番不幸なのは誰?"の解答。

    つまり、以下のような式となります。

    A:主人公の娘 B:横恋慕している男性 C:娘の恋敵の女性 D:娘の子供

     3   - 1 + 1  -2
    A B C - B + D - A C = D

    仮面の男が人を連れ去る時、それが生者である必要はないと考えます。むしろABYSSサイドの他の歌を見ると死の淵、あるいは死に至る瞬間に彼はやってくるようです。特にStarDustでは銃声が"2回"あり、女性が自殺したと見受けられる印象もあります。

    それゆえに、娘が死んだ後に仮面の男に連れ去られたとしても問題はないかと思います。むしろ、仮面の男自体がすでに幽鬼のような存在である以上、死者の魂を引きずり込むのが正解でしょう。

    以上で"一応"ジャケット絵との矛盾点は消失します。ただし、ジャケットを無視できるのであれば、最初の案が一番しっくりくるのが事実なのですが……

    葡萄酒、そして傾いた天秤

    対象楽曲:「歓びと哀しみの葡萄酒」「エルの天秤」

    「歓びと哀しみの葡萄酒」には「Loraine de Saint - Laurent(ロレーヌ・ド・サン・ローラン)」という女性が登場します。後世にまで残るほどの傑作となったワインを残した彼女ですが、彼女は「エルの天秤」にて恋人と逃走劇を繰り広げ、そして仮面の男アビスに恋人を殺され、その後アビスを刺し殺したその女性そのものであると考えられます。

    まず分かりやすい点としては、エルの天秤で使われて以降、ライブなどでも大人気となった「残念だったねぇ」という語りの部分。「歓びと哀しみの葡萄酒」にもこの声が入っています。ちょっと聞き取りにくいかとも思いますが、どこにあるか分からない人は、3分24秒付近をもう一度聞きなおしてみてください。必ず聞こえるはずです。

    ロレーヌの人生を時系列に示すと、以下のようになるかと見受けられます。



    ■「彼」との幸せな時代
    伯爵家の娘として生まれたロレーヌは、何一つ不自由なくすごしてきたのでしょう。やがて彼女は、屋敷の使用人と恋に落ちます。この時、使用人はワインを醸造する仕事をしており、それをロレーヌも手伝っていたのではないでしょうか。
    "愛した彼との『葡萄酒』"という記述がありますが、これはこの幸せな時代に彼から教えてもらった技術を元に後年、ロレーヌが作り出したワインであると考えます。

    なお、後に父親が再婚し「継母」が屋敷にきていることから、母親は死別、または離婚している事が見て取れます。



    ■伯爵家の転落。傾く天秤
    ここで重要なのは、伯爵家には「祖父」と「父親」がいるという事です。
    歌の中で祖父は「優しい祖父」と形容され、逆に父親は「権威主義を纏った父親」と評されています。

    おそらく、ロレーヌと使用人の恋仲について、「祖父」は容認していたのではないでしょうか。そうでなければ、ワインの醸造方法を娘がよく知るほどに放置はしていないでしょう。権威主義の「父親」も、まあ祖父の言う事には逆らえないか、あるいは逆らうほどのメリットがなかったのでしょう。

    しかし、そこに容認できなくなった理由が誕生しました。「父親」の元に嫁いできた「継母」はとんだ浪費家で、伯爵家の財産を食いつぶしてしまったからです。一度傾き始めれば貴族といえども脆いものです。

    そこで、伯爵(父親だと思われる)は娘を政略結婚のために使おうとします。有力な貴族と婚姻関係を結ぶことで、自らの家の格も取り戻そうとしたのでしょう。実に「権威主義」の父親らしい行動と見えます。
    この時、祖父がいればこの父親を止めたのではないでしょうか。しかし、祖父のことは一切話に出てきません。おそらく没落前後に、死去してしまったのでしょう。

    こうなれば、父親を止める人間は誰もいません。



    ■闘争と、逃走の日々
    ロレーヌと使用人は、何かしらのきっかけで父親である伯爵の目論見を知ります。彼女は、愛される人と結ばれることを望み、「そんな『世界』捨てよう…」と貴族の世界から逃げ出したのです。もちろん、家を復興させるための最後の手段である娘をみすみす伯爵が手放すわけはありません。
    なけなしの手勢を使って、なんとしても取り戻そうとしたのでしょう。しかし、彼女たちはなかなか捕まらず、逃避行を続けました。おそらく、伯爵家にじゅうぶんな財力が残っている状態だったら、彼女たちはそこまで逃げおおせる事はできなかったのではないでしょうか。

    そしてやがて業を煮やした伯爵は、どこからか噂を聞きつけ、仮面の男アビスに、娘を呼び戻す事を依頼します。「エルの天秤」では、娘の病気を治すための治療費を集めようと、どんな悪事にも手を染める仮面の男が描かれています。
    そしてそんなアビスに対して、父親は
    「娘さえ戻ればそれでよい。使用人のほうなど殺しても構わんわ」
    と、非常に冷徹な面を見せています。仮面の男はその依頼に従い、船を使って他国にでも逃げようとした二人を、船着場で待ち伏せて、捕らえてしまいます。そして…恋人の使用人は"バシャン"という水音がしているように、川に投げ込まれて殺害されてしまいました。



    ■虚飾の婚礼、仮面の男の死
    連れ戻されたロレーヌは、政略結婚の相手と盛大な結婚式を行います。このとき、何かの運命の皮肉("葡萄酒"の歌詞どおりに解釈するのであれば、継母が浪費して手に入れた『殺戮の女王』の魔力による)によって、彼女は愛しい恋人を殺したアビスの行方を知ってしまったのでしょう。

    ロレーヌは式の途中で姿を消し、そして……見つけたアビスを背中からナイフ、またはそれに順ずる刃物によって突き刺します。この時、彼女は半狂乱状態だったのでしょう。とどめを刺すこともなく、叫び声をあげながら走り去っていきました。



    ■その後の人生
    その後…「歓びと哀しみの葡萄酒」によれば、「その後の彼女の人生は...形振り構わぬものであった……」という記述があります。また、同時に「それでも誰かの渇きを癒せるなら この身など進んで捧げましょう」と、若干自棄的な台詞も見受けられます。
    つまり、彼女はアビスを殺した後、娼婦のような生活をしながら生計をたてていったのではないでしょうか。そうやって、自らの手で資金を作り、ブドウ園を作り上げたのでしょう。

    そうして、作り上げたブドウ園において、彼女は穏やかに、一人「彼」に教えてもらったやり方でワインを造り続けたのでしょう。彼とすごした時間の『歓び』、そしてその最愛の彼を失った『哀しみ』という経験こそが、知らずのうちにワイン製造に深みを与え、後世にまで残るワインを作り出せたのだと考えられます。

    ちなみに「樫の樽の中で 眠ってる可愛い私の子供達」という部分の表現は、純粋にワインの事だと思います。彼の残した技術によって、ロレーヌが作り上げたワインは、まさしく彼女にとって「子供」同然なのでしょう。また、「どんな夢を見ているのかしら」というのは、今後そのワイン達がどのような人たちのもとで飲まれるのか、ロレーヌ自身が夢想している姿ではないでしょうか。

    最後に。このワインと思われる葡萄酒が「見えざる腕」にも出てきます。そうすると、少なくとも「歓びと哀しみの葡萄酒」は「見えざる腕」よりも以前の話となります。関連して、「エルの天秤」ひいてはElysionの物語はChronicle 2ndにおけるガリアの戦いよりもさらに過去の時代の話であるという事になりつつも、この二つの地平が繋がった物語の中にあることを示していると考えられます。

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